【岡山】高松城趾公園
天正5(1577)年。
天下統一を狙う織田信長が、
秀吉に命じ、毛利氏の勢力圏である中国地方への進攻を開始。
天正10(1582)年3月15日、秀吉は2万の大軍勢を引き連れて姫路城を出発。
途中で、宇喜多氏の兵1万と合流、総勢3万の大軍勢となった織田軍は、
毛利軍の「境目七城」の主城である「備中高松城」へ向かいました。
宮路山城、冠山城、備中高松城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城の七城で、その主城が「備中高松城」。
高松城は、低湿地にある「沼城」で、織田(秀吉)軍の兵や馬は攻め入ることが難しく、
また、城主の清水宗治は忠義に厚い武将であり、降伏を勧める秀吉軍に対して
応じなかったといわれている。そんなとき、
黒田官兵衛が立てた作戦が「水攻め」。
城の近くの足守川の東の蛙ヶ鼻から全長約3km、高さ約7mの堤防を築き、
足守川から水を引き込み、水の中に城を置き去りに。
この築堤工事はわずか12日間で完成したと伝えられています。
…とはいえ、地元ではその12日間でできた堤防は
約900m、高さ約3mの程度ではないかといわれているようです。
その後、「本能寺の変」がおこり事態を知った黒田官兵衛は、落ち込む秀吉に対し
「光秀を討てば、天下が回ってきましょうぞ」とささやく。
秀吉は、信長落命の事実を毛利方に知られることがないよう、
そして一刻も早く光秀を討つため毛利方との和睦を急ぐ。
その後、3日中に和睦を結べば領土については譲歩、
宗治の首を差し出せば城兵を助けるという条件を提示された宗治は、自害を決意。
別れの宴を行った後、城を囲む水上へと小舟に乗って漕ぎ出し、
船上で舞を踊り、辞世の句を詠むと、切腹。
浮世をば
今こそ渡れ
武士の名を
高松の苔に残して
そして秀吉は、明智光秀を討つべく、京都に全軍を差し向ける。
これが「中国大返し」の始まりです。
秀吉が天下人となる第一歩となった幕開けの地、それがこの岡山の城でした。
公園の中には、
高松城址公園資料館、清水宗治首塚、清水宗治自刃の地(顕彰碑)などがあり、
また少し歩くと胴塚などもあります。
また織田軍の本陣跡がある石井山には、秀吉が腰掛けていたとされる「太閤岩」があります。
石井山の南に蛙ヶ鼻というところがあり、堤防の跡が残っている。ここから西へ堤防が造られ、現在は史跡公園となっています。